スニーカーブームの始まりは田原俊彦さんだった⁉ 流行の歴史を昔の雑誌から紐解きます
ボーイな女のおしゃれな歴代スニーカーぶる~す
いであつこ
仏・イボルンヌ大を首席で卒業。平成服装女子学院トレンドマスコミ学部准教授。服飾誌研究家として活躍中。コラムニストのいであつしとは双子の兄妹。
『スニーカーぶる〜す』は、マッチこと近藤真彦さんのデビュー曲です。トシちゃんこと田原俊彦さんも「ナイキ」の赤いコルテッツを履いて歌っていました。昭和のアイドルのマッチやトシちゃんがデビューした1980年は、スニーカーがファッションとして認知されはじめた年でした。いまやボーイな女になくてはならないファッションアイテム、スニーカーの歴史を紐解いてみましょう。
65年の『メンズクラブ』3月号を紐解くと、早くも「コンバース」にそっくりな「VAN」のスニーカーの広告があります。67年の7月号で「いよいよ日本でも受け入れられました」と、スニーカーを大特集しています。当時の値段はなんと800円〜1600円です。
そして76年に『POPEYE』の創刊号が発売されます。UCLAの学生など西海岸の若者に流行っていたスケートボードやジョキングをいち早く紹介して、「スニーカーこそ僕らの靴だ!」と題して、ナイキの「ワッフルトレーナー」をはじめコンバースや「プーマ」、「ブルックス」など、ジョキングシューズが紹介されます。まさにポパイの創刊はファッション史におけるスニーカー元年なのでした。
80年代になると、エアロビクスが世界的に大ブームになり、ニューヨークのワーキングガールがハイヒールからスニーカーに履きかえて闊歩して、スニーカーはファッションアイテムになります。
当時のスニーカーのトレンドをいち早く紹介しているのが86年の『an・an』10月31日号です。「ハイヒールはバッグにいれて。ニューヨークの女のように、お洒落な服を着てもスニーカーを履いて歩こう」というタイトルで、スニーカーを大特集しています。作家のピート・ハミルさんが「ニューヨークのOLは仕事帰りにジムやダンススタジオに行けるように、スニーカーを履いてパワフルに街を歩いている」とコメントしています。「軽やかに街をクルージング。大人だから足元も黒」という見出しで、モデルがモードな服に「アディダス」やコンバースの黒スニを合わせています。驚くのは「スニーカーの歩き方研究」と、スニーカーを履いた時の正しく美しい歩き方まで解説しています。まだまだファッションで履くことが新しかったのですね。
90年代になると、裏原宿やストリートファッションブームで、ナイキの「エアマックス」や「エアジョーダン」が大人気になり、空前のスニーカーブームを迎えます。ストリートファッション誌がブームを煽って、スニーカーはどんどんプレミアム化していきました。
96年『Boon』の創刊10周年記念の12月号を紐解いてみると、「AJ1、白×黒デッド、風車ナイキ」と、まるで暗号のような見出しで超プレミアムの付いたナイキのエアジョーダンを懸賞商品にしています。他にも「入手難NIKE」という見出しで、「いまや高値の花と化したエアマックス95。諦めかけていたキミにもチャンスが!」と煽ってナイキのエアマックスを懸賞商品にしています。「エアマックス狩り」が社会現象になったのがこの時代でした。
(おせっかいな)ファッション用語辞典
ナイキの赤いコルテッツ
「3年B組金八先生」で人気が出た田原俊彦、野村義男、近藤真彦のたのきんトリオ。田原俊彦がデビュー曲「哀愁でいと」で履いて一躍有名になり、90年代にはファンクラブの要望でナイキジャパンが復刻までした。
ニューヨークのワーキングガール
82年にジェーンフォンダの本でエアロビクスがブームになり、ニューヨークのワーキングガールから「リーボック」のスニーカーが流行。88年にはメラニー・グリフィス主演の映画『ワーキング・ガール』が公開され、大ヒット。
「エアマックス狩り」
1995年発売のナイキ「エアマックス95」はあまりの人気で品薄になり高額で取引きされるようになり、エアマックス95を履いている人を暴行して奪い取る事件が頻発した。プレミア化したスニーカーブームを象徴する事件。
※掲載内容は発行時点の情報です。
[LaLa Begin 2024年SUMMERの記事を再構成]text : Atsuko Ide comic : Takahiro Shimada